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シリーズ・海外特派員ジャーナリストインタビュー2014 <第10回>古森義久氏

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  古森義久氏は1941年に東京に生まれ、空襲を経験、四歳で終戦を迎えた。中学校から慶應義塾で学び、柔道に専念した。大学は「ごく自然に」経済学部に進学。新聞社を志望したのは大学生の時だった。

1963年に『毎日新聞』に入社後、一年間ワシントン大学へ留学し、ジャーナリズムを専攻した。必死に勉強する中で英語を習得、その後の記者生活において大きなアドバンテージになった。帰国後は静岡支局を経て東京本社社会部へ配属、警察担当や学・カ運動の取材を通して実地で取材の仕方を身に着けた。

 1970年に念願の外信部へ配属され、移動特派員としてアメリカで英語での本格取材を行い、1972年にサイゴン支局へ。現地で柔道を教えながら記者としてサイゴンの現状を記事にし、革命勢力への取材、戦後は検閲にも挑んだ。1976年サイゴン陥落報道でボーン国際記者賞受賞、同年ワシントン支局へ異動。1981年からは米国カーネギー財団国際平和研究所の上級研究員として日米関係を研究。その中でライシャワー氏にインタビューを求め、「核持ち込み発言」を引き出し世間に衝撃を与えた。これにより1982年に日本新聞協会賞を受賞。

 東京本社政治部編集委員と外信部副部長を歴任した後、1987年に『産経新聞』へ移籍。同年ロンドン支局長就任。その頃米国人女性と結婚し、新婚生活はロンドンで過ごす。1989年からワシントン支局長となり、共産主義体制の崩壊、冷戦終結を報道する。また自身の母の死をきっかけに日本の医療制度についても執筆。1998年に『産経新聞』にとって31年ぶりの北京支局再開にあたって中国総局長として北京へ赴任。本人にとって北京赴任は「青天の霹靂」だったが、『産経』の全面的なバックアップもあり、従来の中国報道では扱われなかった人権問題・軍事問題・対中ODAなどのテーマを取り上げて警告も受けるようになった。2001年にワシントンに戻り、9・11同時多発テロ事件を経験し報道。「個人の自由、開かれた社会、そういうアメリカ的なものが抑えられるようになった」と感じたという。

 マスメディアには「最初に報道という機能があって、さらに論評がある。報道は可能な限り客観的、中立に伝える。100%客観なんてあり得ないけれども、できるだけその地点に近づけるように努めること」が大事であると述べた上で、アジア報道では「報道と評論の区分」をつけるべきであり、さらにNHKをはじめとする日本のメディアには、当事者として国益という視点が少し欠けていると主張した。

   インタビュワー
主担当:尾崎彩、副担当:戸川旅人  

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