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「五来欣造(ごらいきんぞう)教授の歌」

  (一)インド鉄鎖にうめき  (二)西に伊太利(イタリー)怒り
   支那搾取に悩む       東に日本立つ
   聞けや人の子が       おのれ吸血鬼
   天地に喚く声        打倒さでをくべきか

(三)誇る紳士の仮面    (四)見かけ倒しの民よ
   はぎとりや偽善国      そろばん玉の国
   抜けやこの剣        鉄のこのこぶし
   かざせや破邪の剣      振へば一すくみ

(五)西に月蔭消えて
   東に日は昇る
   植ゑよ桜花
   世界のすみずみに

「兎に角英国の行動は怪しからん 僕はネ、あの…四百四州…の節に合はせて五万の学生に歌はせるために」と五来教授が頃日御披露に及んだのがこれ
早速外務省に持参に及ぶと「飛んでもない」との一言、それではといふのでポリドールへ持ち込み東海林(しょうじ)太郎にでも歌はせようと意気ごんでゐるが
この一詩果たしてレコード会社の陥落に成功したかどうか (『早稲田大学新聞』昭和13年1月1日付コラム「学園に鳴く」)  出典が短いコラムであったので全文を引用させていただいた。早稲田大学が公に作った知られざる歌の代表が「若き学徒の歌」であるとすれば、こちらは早稲田大学に属する人物が私的に作った歌の中でも恐らく最右翼に属するものであろう。
 コラムの文中に「五来教授」として登場するのが、この歌を作詞した五来欣造である。五来は東京帝国大学の出身であり、明治35年に読売新聞に入社した2年後には特派員としてパリに派遣された。帰国後の大正3年からは読売新聞の主筆を務め、大正8年から昭和19年に亡くなるまで早稲田大学で政治学教授を務めている。当時としてはかなりのインテリゲンツィアであったことは間違いない。また五来は文学者と言う一面も持っており、五来素川(そせん)や斬(ざん)馬(ば)剣(けん)禅(ぜん)といった筆名で本を出しているほか、昭和11年に作詞した『黒羽小唄』はテイチクレコードから実際に発売されている。
 一方でこの人物、自身の政治信条としてはかなりの右派に属していたと見える。昭和12年に結成された国際反共連盟(現在存在する同名の組織とは無関係である)では評議員として荒木(あらき)貞夫(さだお) や蓑田胸喜(みのだむねき) らとともに名を連ね、また昭和13年にはヒットラー『我が闘争』の翻訳を完成させている。特に昭和13年11月23日付『早稲田大学新聞』の記事「ヒツトラー『我が闘争』の翻譯 五来教授感激の労作」では

「この書は単に政治、経済、外交の方針を打ちたてたばかりでなく、民族理論を究めドイツ民族の理念を喝破したもので独逸では各戸に一冊づつ必ず備へられてをり英米でも三万部から出版されてゐます、この書は理論的な精密さとか何とかといふ前にまづ燃ゆるが如きヒ総統の情熱がそのまゝ行間にあふれてゐて僕はこれを読んでひどく感激し是非とも自分の手で訳したいと思ひ立つたものでした」 という非常に情熱的な言葉を寄せている。余談ではあるが、この時五来が完成させたという『我が闘争』の翻訳の所在は現在明らかでない。ぜひ一度目を通してみたいものである。
 さて、歌詞とコラムに話をもどそう。五来の言う「英国の行動」が何を指すかは明らかではないが、それを受けて英国を極めて強烈に批判する過激な内容の歌である。持ち込まれた外務省が「飛んでもない」というのもむべなるかな、といったところであろう。ポリドールからこのような歌詞のレコードが発売されたという事も寡聞にして聞かない。おそらくはそのままお蔵入りになったものと推察される。当時の『早稲田大学新聞』のコラムニストが記録に留めた為にかろうじて歴史の中に消え去ることを免れたといえよう。
 因みに「四百四州…の節」とは、軍歌「元寇(げんこう)」のメロディーのことである。歌を作るのに他の歌のメロディーを借用する事に疑問を抱かれる方もいるかもしれないが、これ自体は特に珍しいことではない。早稲田大学の最初の応援歌として1905年に制定された「敵塁如何に」も軍歌「敵は幾万」の曲を借用している。

(遠藤彰人)

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