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「若き学徒の歌」

   作詞 伊藤寛之(政治経済学部三年)
        作曲 池安延(政治経済学部三年、早稲田音楽協会)
(一)都の森の奥深く           (二)聖(せい)恩(おん) の下 うれひなく
   探る心理の花染めて            励む研鑽 幾歳(いくとせ)ぞ
   くれなゐ射すや新曙光(しんしょこう)    祖国の急に身を殉じ
   若き学徒の胸を打ち            叡智の鎧輝やかに
   鳴るよ歴史の暁(あけ)の鐘         使命果たさん秋(とき)いたる

  (三)七つの海に照り映えて        (四)嵐に花は散らんとも
   東亜に興(おこ)る新秩序          往け 一瞬に永遠(とこしえ)を
   鉄鎖(てっさ)の民を解放(ときはな)し    生きて栄光(はえ)あるわが生命
   愛の文化の建設に             八紘為宇(はっこういう) の旗の下
   若き生命を抛(なげう)たん         勇む学徒に光あれ


 この歌は昭和15年9月27日、紀元二千六百年 ならびに早稲田大学の創立60周年を記念する記念歌として選定された歌である。歌詞は学園生 の間からの募集によったもので、約200作品の応募があったという。当選した伊藤には賞金として200円が贈られたが、伊藤はそれを即日自分の属した同人雑誌『火冠』に寄贈し、『火冠』もまた即日それを当時建設計画が進行中であった報国碑 の建設基金の一部として寄付している。
早稲田大学が学園生に歌を募集するというこうした企画が行われたのは、明治40年に創立二十五周年を期して校歌が募集された時以来であったというから、そうした点からいえばこの企画はまさしく第二の校歌を募集するものであったと言っても過言ではないであろう。実際、この歌詞が当選したことを発表する昭和15年10月2日付『早稲田大学新聞』の記事では、この歌について「校歌『都の西北』と併唱さるべき学生歌」であるとしている。しかしながら、現在この歌が早稲田大学の行事で歌われることは全く無いと言っていい。一体どうしてなのか?
 理由は、歌詞に込められた意味とその背景にある。この歌が募集された昭和15年は日中が武力衝突している真っただ中であり、大陸から手を引かせようとしてくる米国との関係もそろそろきな臭くなってくる時期である。そうした時代を背景としてのことであろう、「若き学徒の歌」が募集されることを報じた『早稲田大学新聞』の記事では募集される歌が「新亜細亜(あじあ)建設の使命を双肩に担い立つ若き学徒の壮なる意気、輝かしき理想を高唱する」、「新しき世界体制の創造に邁進する日本の若き学徒の気魄を高調する、真に学徒に相適しき学生歌」であるとしている。また、この歌の選定には西條(さいじょう)八十(やそ)など当時の早稲田大学の教授5人が携わっているが、西條は「若き学徒の歌」を募集する意義を述べた文の冒頭で「聖戦 以来、歌謡の力といふのが著しく社会的に認知されるやうになつた」とし、「愛国行進曲」や「英霊讃歌」、「愛馬進軍歌」などの歌が「この緊迫時の民心を昂揚し、鼓舞し、また一致せしむる、それぞれの良き効果を挙げてゐる」と述べている。そしてこの「若き学徒の歌」の募集は「大陸建設の重き使命を双肩に担(になつ)てたつ炎の意気を高唱せしめんとする」「まことに時宜を得た、愉快な企て」であると評している。
 こうした背景があって選定されたこの歌の歌詞は、当時のイデオロギーを強く反映したものとなっている。「祖国の急に身を殉じ」「鉄鎖の民を解放し」「八紘為宇の旗の下」などといった文言と連ねた歌詞は、いずれも軍歌と見まがうばかりのものである。当時の早稲田大学がどうしてこうした歌を必要としたのか、またそうして作られたこの「若き学徒の歌」をどのように評価するべきなのか。軍歌研究家として著名な辻田(つじた)真(ま)佐(さ)憲(のり)氏に、この歌についてのコメントを求めた。

『組織歌の懸賞公募は、昭和戦前期の日本でよく見られた現象である。歌詞や旋律を作れば組織に対する理解は深まるし、それをレコードにすれば更なる宣伝効果が期待できる。音楽産業が急速に発達した時代に、歌の懸賞公募は手軽かつ有効な宣伝手段だったのだ。
 昭和戦前期はいわゆる十五年戦争の時代にあたるので、懸賞公募歌もナショナルな単位の軍歌や愛国歌が多かった。「肉弾三勇士の歌」や「愛国行進曲」などがそれに当たる。ただ、自治体・会社・学校などよりローカルな団体の懸賞公募歌も決して少なくなく、ナショナルな組織歌とローカルな組織歌は併存していたといえる。後者の例としては、「東京市歌」「文藝春秋の歌」「明治チョコレートの歌」などが挙げられよう。
 もっとも、両者は決して分断されていたわけではない。戦争の時代にあって、ローカルな歌は陰に陽にナショナルな歌の影響を免れなかった。北原(きたはら)白(はく)秋(しゅう)が、ローカルな歌をナショナルな歌の下位に位置づけ、組織歌の階層化を測ったのは象徴的だ。
 このような事情を踏まえると、「若き学徒の歌」が紀元二千六百年と早大建学六十年を同時に祝う懸賞公募歌だったというのは大変興味深い。というのも、この歌がローカルな組織歌であると同時に、ナショナルな組織歌でもあったことを意味するからだ。日米開戦を翌年に控えた一九四〇(昭和十五)年、ローカルな懸賞公募歌はもはやナショナルなイベントと無縁ではあり得なかったのである。歌詞が当時の軍歌の類と区別がつかないのも当然だろう。
 懸賞公募歌であり、ローカルかつナショナルな組織歌。その意味で、「若き学徒の歌」は戦時下の組織歌の一典型であったということができよう』

 「若き学徒の歌」は昭和15年11月5日、当時の戸塚グラウンドで行われた建学60周年記念式典で初めて全学園生によって合唱された。青く澄んだ空に響き渡ったこの歌が、再び大気を震わせる日は、恐らく二度と来ないであろう。
(遠藤彰人)

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