土屋ゼミ5期 横井 克宏
日米野球の原点とは?
皆さんは、日米野球をご存知だろうか。日本とアメリカという、2つの野球大国の選抜チームがしのぎを削る、野球界の一大イベントである。昨年は「 2014 SUZUKI 日米野球」が開催された。結果は 4 勝 1 敗(親善試合除く)で、侍ジャパンチームが MLB オールスターチームに勝ち越した。特に第 3 戦では、侍ジャパンの投手陣が一つのヒットも許さない力投を見せ、見事な勝利を飾った。日米の間だけに止まらず、「侍ジャパン」の名を冠する日本野球オールスターチームは、 WBC ( World Baseball Classic)でも華々しい成績を挙げ、世界の名だたる強豪を相手に、数々の名試合を演じてくれた。
近年における本野球のアメリカ進出は目覚ましく、日本が「野球大国」となったことは明らかである。「ゴジラ」の異名で老若男女から親しまれた松井秀喜や、日米両球界において規格外のヒット数を叩きだしたイチロー、圧倒的な投球で楽天を初優勝に導いた田中将大らがその好例である。今でこそ日本人の大リーガーは数多く存在するが、その実現には長い年月が必要であった。日米両野球界のたゆまぬ交流が、日本人大リーガーを生んだのである。
日米野球の歴史はかなり古く、その起源は約100 年前にまで遡る。当然、日本が世界的な野球大国に成長する原点も、日米野球の歴史の中に求めることが出来るのである。アメリカから伝わった「野球」というスポーツが、アメリカと日本との交流の中でいかに発展してきたのだろうか。その源流を探ってみると、一つの事実に突き当たる。それは、野球を通じた日米交流において、「新聞」というマスメディアが非常に大きな役割を果たしてきたという事実である。
元祖・メジャー遠征団、日本に与えたその衝撃
1870 年代にアメリカから伝来した野球は、1900 年代初頭には日本中に広まり、野球ブームが巻き起こっていた。 1908 年、日本を新たな野球ビジネスの開拓地と見たアメリカのスポーツ会社は、日本に大リーグ選抜チームを派遣した。しかし当時の日本には職業野球選手(プロ野球選手)が存在せず、初の大リーグ選抜チームと試合を行ったのは、早稲田大学や慶應大学の野球チームや社会人野球チームであった。この後も、様々な編成(全米選抜チームであったり単独のチームのみであったり)の大リーグチームが日本を訪れ、日本にも職業野球チームを作ろうとする動きが生まれた。しかし当時の一般的な野球観では、あくまでアマチュア野球を是とする傾向が強く、職業野球チームの結成は野球の商業化を招くとして強い反発を受けた。
1907年(明治40年)10月30日の読売新聞朝刊記事
(読売新聞データベースより抜粋)
試合結果:慶應大学 対 ハワイ・セントルイス大学
一回戦 8 3
二回戦 2 4
三回戦 0 4
四回戦 0 10
(1907年11月18日の朝日新聞朝刊記事より引用)
1907年(明治40年)10月30日の読売新聞朝刊記事
(読売新聞データベースより抜粋)
試合結果:早稲田大学 対 ハワイ・セントルイス大学
一回戦 0 2
二回戦 0 4
三回戦 2 9
(1907年11月18日の朝日新聞朝刊記事より引用)
「プロ VS プロ」の日米野球へ
大正から昭和にかけての野球ブームを牽引していたのは、当時激しい販売競争を行っていた朝日・毎日・読売などの新聞社であった。なかでも読売新聞社社長正力松太郎は、日米野球イベントの開催による購読者獲得を考えていた。彼は「歴代最高の顔ぶれを揃えた大リーグチーム」の招聘と、それに対抗しうる「歴代最高の日本野球選抜チーム」、すなわち「日本最初の職業野球チーム」の結成を計画していたが、その両立は容易ではなかった。この一大イベントの実現には、鈴木惣太郎という人物の助力が不可欠であった。鈴木惣太郎は生糸貿易を行う会社に勤めており、アメリカとの繋がりも強い人物であった。彼は熱心な大リーグファンであり、それゆえ正力松太郎の日米野球構想に惹かれメジャーリーガー招聘の実行部隊としてアメリカ中を飛び回った。彼は、自身が培った語学力と人脈をアメリカ野球界との交渉において大いに発揮し、メジャーでもトップクラスの選手であったベーブ・ルースやルー・ゲーリッグの招聘に成功した。
一方、正力や鈴木をはじめとする読売新聞社関係者達は、全日本球界を代表する職業野球チームの結成にも奔走した。学業や仕事の傍ら野球を行うアマチュア野球チームとは別に、野球そのものを生業とする職業野球チームを作らねばアメリカの野球には太刀打ち出来ない、と彼らは考えたのである。職業野球への反感の視線に晒されながらも候補者は着々と集められ、遂には読売新聞の紙面上で代表者の「選挙」が行われるまでになった。
1931年(昭和6年)10月2日の読売新聞記事
(読売新聞データベースより抜粋) |
1931年、読売購読者と 12 人の選考委員によって選びぬかれた選手団は、ルー・ゲーリッグを含む大リーグ選抜チームと対戦した。 1934 年には、ルー・ゲーリッグのみならず、大リーグが誇るホームラン王ベーブ・ルースもメンバーに加えた、アメリカン・リーグ選抜チームが来日した。これに対し、読売新聞は念願の職業野球チームを創立し、「大日本東京野球倶楽部」と名付けた。後の読売ジャイアンツである。
正力が日米野球に携わった目的の中には、「自社の宣伝」という意味合いが大いに含まれており、野球というスポーツそのものを純粋にプロモーションしようとしたわけではなかった。例えば、読売新聞を購読すると定期的にジャイアンツの試合のチケットが貰えるが、これは元々正力が始めた事である。正力は様々なイベントのチケットを購読者に配る事で購読数を増やそうと試み、日米野球のチケットもその一環であった。大日本東京野球倶楽部の結成は、ビジネス・商業としての野球が日本で本格的に始動したことを示していた。
結果的に、読売新聞社は日米野球史に燦然と輝くドリームマッチを二度も開催することに成功したのだが、その開催に当たっては様々な問題を乗り越えねばならなかった。上に述べたような職業野球への反感だけではなく、野球そのものを敵視する思想も当時の日本には生まれつつあったのである。日本が戦争へと突き進む中で、野球に対する風当たりはどんどん厳しくなり、野球による日米交流の道は一旦閉ざされてしまった。
1934年(昭和9年)10月22日の読売新聞
(読売新聞データベースより抜粋) 試合結果:16戦において アメリカン・リーグ選抜チームが 日本選抜チームに全勝 |
戦後の日米野球、その混沌
第二次世界大戦が終わり、15 年ぶりに日米野球が再開された。 1949 年のことである。前述した正力松太郎や鈴木惣太郎は、日米野球再開の立て役者としてもその名を挙げることが出来るのだが、 GHQ 側からも日米野球再開に対し働きかけがあった。
しかし、その働きかけは容易には実を結ばなかった。戦後の日本野球は単なる復興のみに留まらず、二リーグ制の導入や新球団の設立など、様々な事業を並行して行っていた。しかし、その中で読売新聞社や毎日新聞社等の球団オーナー達の利害はなかなか一致せず、オーナー間の議論は紛糾した。そこに GHQの思惑も絡み、当時の日本野球界は正に混沌とした有様であった。日本の野球人気は戦前にも増して高まっていったが、その裏で正力・鈴木・原田ら野球業界人たちは不和に悩まされ続けることになった。このような混沌状態は、野球がプロスポーツとして商業化・ビジネス化したことと深い関係がある。戦後に新しく興った球団のオーナーたちは、野球をより商業主義的に捉えており、その姿勢が他のオーナー達へのライバル心を掻き立てたのである。
そのような混沌の時代の中にあったものの、1949 年に再開された日米野球はほぼ 2 年ごとに開催され続けることになった。また、その主催は読売新聞社と毎日新聞社が交互に行うよう取り決められた。なぜなら、 1953 年に両社が別々に大リーグチームを招聘してしまう事態があったからであり、このことも戦後の日本球界の混沌ぶりを表している。
商業化による弊害もあったものの、その後日本野球は黄金期を迎え、その中でも日米野球は日本中の野球ファンが熱望する大イベントであり続けた。戦前と同じく大リーグから選抜チームや単独チームが招聘され、日本が誇る名選手たちと対戦を行い、現代に至っている。
これからの日米野球は?
再び現代の日米野球に目を向けてみると、日米野球草創期に比べて、 日本野球と大リーグとの戦力差は大幅に縮まってきていることは明らかである。もちろん、大リーグに追いつくというレベルにはまだ程遠いし、 2014 年に来日した大リーグ選抜軍の編成自体が「最強チーム」とは言い難いものであったのだが、今回の日米野球で侍ジャパンが成し遂げた偉業は、日本野球の確実な進歩を象徴する事実である。
しかし近年は日本のスポーツ自体が多様化を進め、日本における野球の地位が盤石とは言えなくなっている。日本の野球の在り方が変わるのであれば、日米野球の在り方ももちろん変わってくる。 今回の記事では、読売新聞社をはじめとする新聞社が日米野球の発展において大きな役割を果たし、戦前から戦後に渡って日米の野球交流に強いイニシアチブを発揮し続けた事実を述べた。しかし、日米野球を「報じる」マスメディアとしての新聞社と、大リーグ野球を「呼び込む」プロモーターとしての新聞社とが存在する状態が、これからの日米野球においても続くとは、必ずしも言えないだろう。日米野球が新しい時代を迎える時に備え、新聞社も新たな役割を見出す必要がある。
参考文献
「日米野球史-メジャーを追いかけた70年」 波多野勝 著出版:PHP研究所, 2001年
「日米野球交流史-永久保存版」出版:ベースボール・マガジン社, 2004年
「日米野球裏面史-美少女投手から大ベーブ・ルースまで」佐山和夫 著 出版:日本放送出版協会, 2005年
「日米野球の架け橋 : 鈴木惣太郎の人生と正力松太郎」 波多野勝 著 出版:芙蓉書房出版, 2013年
「スタジアムは燃えている : 日米野球文化論」杉本尚次著 出版:日本放送出版協会 , 1992年
参考データベース
「ヨミダス歴史館」(読売新聞データベース)www.yomiuri.co.jp/database/rekishikan
「聞蔵Ⅱビジュアル」(朝日新聞データベース)database.asahi.com/library2
「毎索」(毎日新聞データベース)http://mainichi.jp/contents/edu/maisaku/
いずれも最終閲覧日は2015年7月31日