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土屋ゼミ2014年度 <第2回>韓国滞在記

  土屋ゼミ5期 板垣 洋一

 日にゼミの用事があって行ったのだが、折角の韓国ということで首都ソウルの各名所や韓国映画『JSA』で有名な38度線の地「板門店」を巡る忙しくも充実した四日間であった。

一日目 ソウル到着

 韓国は日本に最も近い国の一つだ。羽田空港から飛行機で僅か二時間、福岡からは一時間もかからないし、人々も日本人と微妙に顔かたちは違うが、それでも同じアジア人ということもあって基本は同じだ。だが根本的に異なるのは韓国が未だ「戦争状態」に置かれていることであろう。 日本では朝鮮特需として寧ろ繁栄さえもたらしたイメージのある朝鮮戦争(1950~1953)は、朝鮮半島全土に未曾有の被害をもたらした。休戦条約は調印されたが、半島は北緯38度線で分断され、厳密には韓国と北朝鮮の戦争は終わっていないのだ。 筆者は羽田空港からソウルの金浦空港に向かった。飛行機は定刻より早く金浦上空に到達、夜のネオンが美しい。 着陸案内のアナウンスに不思議な一言が混じる。

 
「保安上、金浦空港の上空からの撮影は当局によって禁止されています」
 
 正直なところスパイでなくとも隠して撮ることは容易く、意味があるのかは不明だ。もちろん世界の空港では他にも撮影禁止な場所は色々あるのだが、ある種平和ボケした日本人からすると飛行機で僅か二時間の距離の国におけるこの奇妙なアナウンスは印象深い。
 
 ソウルは北朝鮮との境界線から40キロ、バスで40分程度しか離れていない。ミサイルでなくとも、北から一発撃てば文字通りソウルを「火の海にする」ことができるわけで、朝鮮中央テレビのオバサンもあながちウソは言っていない訳だ。
 
 空港からタクシーでホテルに向かうと、とにかく道が広い。片側五、六車線は当たり前でそれでもラッシュ時には車で溢れかえる。これは首都に限った話ではなく、例えばソウルから文字通り「北」へ向かう国道一号線は、38度線に近づき民間人立ち入りが制限される地点を越えても尚、広い複数車線が続く。二日目のバスガイドさん曰く、将来南北が統一した時に車が自由に行き来する為に広くしているのだという。ともあれ渋滞に巻き込まれつつ、無事ホテルに到着して一日目は終わった。外国の楽しみといえば現地のテレビチェック。韓国のテレビは日本のケーブルテレビやCS放送のように、コンテンツ別に様々なチャンネルがあり、韓国語だけでなく中国のCCTV、日本のNHK、ロシア語放送、BBC等幅広く50チャンネル以上見ることができる。

二日目 最前線・板門店

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 朝鮮半島は北緯38度線付近で分断されており、その境界は軍事境界線と呼ばれる。あくまで分断線であり、国境線ではない。その38度線上に位置する板門店という地区は、朝鮮戦争の休戦条約が調印された場所で、地区内には北朝鮮と国連軍が共同で警備している場所があり、観光地となっている。南の兵士と北の兵士が至近距離で微動だにせず立っている写真を教科書で見た方も多いだろう。ここは南北対立の最前線であり、韓国籍や北朝鮮籍等、一部国籍の人間は見学できず、また個人での立ち入りも許可されていない(ツアーのみ)。筆者が参加したのは、展望台や秘密トンネルを観光して、最後に板門店を見学する一日がかりのツアーである。
 
 早朝にソウル中心部を出発して境界線に向かう。20分もすると車と人々で溢れるソウルの大都市らしい活気は嘘の様に姿を消し、物寂しい農村地帯をバスは走る。脇を流れる巨大な臨津江の向こう岸は既に北朝鮮である。韓国側は木々が鮮やかな紅葉を見せるが、北朝鮮側に見えるのは木が一本も生えない禿山ばかり。これにはガイドさん曰く二つの理由がある。一つは燃料不足を補うため、もう一つは脱北者を監視するために北朝鮮当局が木を全て切ってしまったというのだ。
 
 ソウルから40分程乗ると、バスが軍の検問所に着く。38度線付近は民間人統制区域とされ、特別な許可がない限り民間人は立ち入ることができないのだ。若い韓国人兵士が乗り込んで来て、乗客のパスポートをチェックする。警備は韓国軍とアメリカ軍の共同警備で、兵士は筆者と年齢のそう変わらない青年ばかりだが、姿格好は当然として、動き顔つきも全く日本の大学生とは違う。戦争が終わっていない韓国では約二年間の兵役が極めて厳格に男性の義務として課されていて、男性の多くは大学を途中で休んで約二年間の入営生活を送る。頭を刈り上げ、軍服に身を包んだ青年たちは街の至る所で見ることができる。検問所を抜けると、自由に撮影できる場所が限られてくる。
 
 さて、最初に向かったのは、朝鮮戦争後に、北朝鮮が韓国に侵攻する為に密かに掘った秘密トンネルの一つ、第三トンネルである。人一人が中腰でやっと通れる規模の、アナログ感に満ちたトンネルだが、戦闘勃発時には膨大な数の北朝鮮兵が雪崩れ込む予定だったようで、韓国からすればその存在はあまりに重い。四つのトンネルが発見され、三つが観光用に一部解放されているが、軍は他に15本はあると見ているらしい。


 
 38度線から南北二キロの間は南北の合意によって非武装地帯(Demilitarized Zone、通称DMZ)と定められており、南北共に軍は武装出来ない。一帯には戦争で埋められた地雷が残っており、60年に渡る緊張関係の間、DMZは両者が介入しない地帯となった為に貴重な自然環境が残されている。戦争によって自然が保護されているというわけで、奇妙な皮肉である。北朝鮮を眺める展望台から見る国境地帯は色付いた紅葉と緑の木々が織り交ざり、晴天も相俟って圧巻の美しさであった。右の写真は都羅展望台から北朝鮮側を監視する韓国軍兵士。


 
 映画であれ教科書であれ、南北兵士が至近距離に対面する板門店のイメージは「恐るべき緊張の場」である。しかし驚くべきことに、現実の板門店はフィクションより奇妙だ。板門店に入ると筆者一行はバスを降り、ブリーフィングを受ける。ここでは参加者全員が「何が起きても国連軍は一切の責任を負わない」という物々しい書類にサインをし、国連軍のバスに乗り換えてJSAへ向かう。この共同警備区域(Joint-Sucurity-Area、通称JSA)とは板門店の軍事境界線上にある特別区域で、韓国軍・アメリカ軍を中心とした国連軍と北朝鮮軍が共同で警備を行っている。さていよいよJSAに足を踏み入れたが、確かに向こうに北朝鮮の兵士は一人いるものの、実に長閑なもので境界線と言われてもピンと来ない。


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 上の写真で青い建物が国連軍の管理するもので、奥の白い建物が北朝鮮の建物。青い建物の真ん中が境界線であり、観光客は建物内だけ「北朝鮮側」に行けるのだが、筆者含め皆、兵士とツーショットを撮ったりと重々しさは感じられない。南北は常に至近距離にある双方の監視所からカメラや肉眼で監視しているのだが、最前線に居ながらも何か現実離れした感のある、不思議な場であった。


 
 島国である日本は北方領土問題など例外はあるが、国境線概念が皆無であり、自国領土内で分断された歴史も知らない。日本は朝鮮を35年間植民地にし、戦争に敗れた。だが日本は事実上のアメリカの単独占領を受けた後に独立し、分断されたのは寧ろ朝鮮の方だった。そんな日本で生まれ育った筆者にとっては新鮮だったが、38度線近くには「統一」への願いを随所に見ることができる。韓国最北端の駅、都羅山駅の構内には、空港同様の手荷物検査場と「平壌方面」の乗り場が綺麗に整備されている。いつの日か南北が正常化して電車が行き来する日を待って、使われることなく静かに佇んでいるのだ。
 
 歴史の最前線から戻り、夜は文化の最前線ソウルを観光した。街の至る所に日本語の看板や案内が目立ち、地下鉄も駅によっては日本語のアナウンスが流れる。それ程日本人観光客が一時期多かったことの表れだろうが、現在は落ち込み気味なようだ。
 
 早くも綺麗なクリスマスライトアップに彩られたロッテ百貨店、渋谷と原宿を足した様な一大ファッションストリート明洞、韓国有数のデートスポットらしい清渓川の魅力。そして有名な世宗大王像の周囲では、セウォル号沈没事故の追悼行事やチャリティーコンサートが行われ大いに盛り上がっていた。日本では到底許可されないであろう量のサーチライトがビルを照らし、壮観な眺め。
 
 またこの近くに在る日本大使館前には、日本で悪名高い慰安婦像がある。実際に見ると小ぶりなものだが、周囲を韓国の警察が警備しており、それなりに物々しい。報道される機会の多い竹島ならまだしも、対馬も韓国の領土だと主張する韓国の団体の横断幕も興味深い。



三・四日目 戦争記念館・梨泰院・西大門刑務所

 
 韓国戦争記念館は、親子連れと社会科見学に来た生徒で賑っていた。日本には存在しないが、相応の軍事力と歴史ある国に軍事博物館は付き物だ。
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 日本の植民地支配を経て、朝鮮戦争で北朝鮮・中国との殺戮戦を展開した韓国も例外ではなく、広大な敷地に巨大なハコモノを作り上げ、館外には戦争に使用された兵器を陳列し、館内では韓国の有史以来の膨大な戦争の歴史が展示されている。
 
 有史以来なので、日本の教科書でもお馴染みの、打製石器や磨製石器で狩りをしたり、部族同士で殺し合いをしていた時代から、イラク戦争への出兵まで、戦争らしい戦争は全て網羅されている。現在も映画が大ヒットするなど、韓国人にとって忘れがたい記憶である豊臣秀吉の韓国侵略の展示は充実しており、社会科見学の小学生を前に、ガイドらしきオジサンが熱弁を揮っていた。
 
 1910年からの日本の植民地時代は「日帝強占期」と表記されている。「日本帝国主義」によって「強引or強制的」に「占領された」ということで、伊藤博文を暗殺した安重根は義士(ヒーロー)であり、独立活動家を投獄・拷問・殺害し、文化を抑圧した日本は巨悪として説明される。だが意外にも植民地支配については然程触れられず、圧倒的なのはやはり朝鮮戦争。
 
 北朝鮮・中国・ソ連が邪悪な共謀で韓国侵攻を企て、戦争で如何に北側が虐殺、強制労働といった非人間的な悪事を働き、如何に韓国国民が英雄的な戦闘を展開し、尊い命を国に捧げたかが膨大なスペースを使って展示されている。一方で韓国内で共産スパイの疑いを掛けて多数の一般市民を韓国人が虐殺した事実や、ベトナム戦争における韓国軍の問題ある行動といった不都合な要素はことごとく省かれている。
 
 時間の都合で見られなかったが3D画面、大音響で戦争を「体験」する映像室もあるようで、年端も行かぬ子供たちで賑っており、戦争記念館なのかアトラクションなのかよく分からない。仰々しいナレーションと激しい戦闘映像で構成される解説映像を、静かに見ている子供たちが印象的。館外にズラッと並んだ実物の戦車、装甲車、大砲、戦闘機の前には子供たちが群がり、子供と戦車のツーショットを撮る母親の姿がちらほら。両親、特に母親にしてみれば、戦車で無邪気に喜ぶ自分の子供も軍隊に入る運命な訳だが、その心中いかなるものか。
 
 夜は様々な人種で溢れかえる街、梨泰院へ。地下鉄を降りて地上に上がると、メインストリートに様々な店が連なる。正直なところ、メインストリートは原宿や表参道と何ら変わらないのだが、そこから脇に逸れると、イスラム教徒が多く住む地域がある一方で、反対側に逸れると欧米さながらの白人街があったりと、凄まじい多様性に満ちていて面白い。英語だったり、アラビア語だったりで、韓国なのにハングルの看板が殆ど見られないのである。
 
 四日目はソウル駅から地下鉄で西大門の刑務所跡へ。ソウル駅の歴史は古く、植民地時代に日本が「京城駅」として整備し、今でも旧駅舎の入り口と待合所が残されている。筆者一行はその旧駅舎内で偶然、映画の撮影現場に遭遇した。舞台は植民地時代のようで、駅構内に日の丸と「京城駅」の文字が掲げられ、昔の衣装を着る俳優たちの姿が。予想外のタイムスリップである。
 
 ソウルの随所には植民地時代の建物が残っており、現役で使われている。ソウルには、日本で忘れられた、かつての歴史が生々しく残っているのだ。
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 西大門刑務所は日本が植民地時代に、近代技術の粋を集めて作ったもの。内部は博物館として整備され、当時の受刑者の過酷な生活や、独立運動家の弾圧の歴史が人形等を用いて物々しく展示されている。戦後は民主化運動等に関わった人々が投獄されたが、それについては詳しく説明されない。日本支配の歴史と共に、韓国の政治的立ち位置を表す場所でもあるようだ。周囲の紅葉の美しさは筆舌に尽くしがたい。天候に恵まれた四日間であった。

まとめ

 
 板門店、兵役、戦争記念館など、韓国は戦争と切っても切り離せない状態にある。しかしソウル市中はとても賑っており、ここがあの金一族の支配する独裁国から40キロしか離れていないと実感するのは難しい。立ち並ぶ最先端の衣服店、欧米人さながらに腕を組んで歩くカップルたち、焼酎・麦酒を飲んで盛り上がる仕事帰りの人々、新作ドラマの宣伝、日本と変わらないコンビニ、朝から元気な市場のおばちゃん…。台湾にも同じことが言えるが、どこか見覚えがあって、日本人にとっては親近感を持てる場所だ。
 
 一方で竹島・独島問題や慰安婦問題を争点に、日韓の摩擦は最近益々激しくなり、日本では韓国の反日パフォーマンスが度々報道され、インターネットも本屋の棚も「嫌韓」の大盤振る舞いである。しかし百聞は一見に如かず。筆者が見たソウルは日本政府への「反日」こそ公然と存在すれど、日本で考えられているような反日は目に付かない場所であった。
 
 元産経新聞ソウル支局長で、30年以上韓国に住む黒田勝弘氏は「新聞やテレビさえ見なければあんなに楽しいところはない」と著書で述べている。ジャーナリストの野中章弘氏も以前、講演で同様の事を語っていた。韓国の反日は、意識しなければ矛先が自分に向くことの無い反日ということだ。近年日本で残念に思うことは「嫌韓」が韓国政府や政治家、政策への非難ではなく、韓国人そのものへの人種的嫌悪を伴うことが度々あることだ。世界的に見ればこれはレイシズムであり、海外から非難されるのも当然であろう。
 
 勿論韓国にも様々な問題がある。大使館前の慰安婦像もそうであるし、空港への地下鉄の車内では「独島」が如何に韓国の正当な領土か宣伝する広報動画が、ご丁寧に英語字幕まで付いて流れている。日本の車内モニターに同様のものがあったら、と考えると異様である。だがこういったプロパガンダもまた一側面に過ぎない。たかだか数日間で何かが理解できるわけもないが、筆者は韓国は歴史、戦争、そして日本自身を見つめ直す機会と手掛かりに満ちた国と確信した。
 
 今回の四日間は、短期間ながら単なる買い物観光の枠を超えた、多様なソウルの顔と韓国の現状を垣間見る貴重な機会であった。



参考文献 黒田勝弘『韓国人の研究』角川学芸出版 2014年

 

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