土屋ゼミ6期 谷所
2016年4月、ハンセン病患者の特別法廷について最高裁が謝罪した。最高裁は1948年~1972年まで「感染拡大のおそれ」を理由に、ハンセン病患者を対象とした裁判を裁判所外に設置することを認めてきた。この判断について、最高裁が「社会の偏見を助長した」として謝罪したのだ。普段のニュースでは目にしない「ハンセン病」の文字が、新聞の一面に並ぶ。
私の住む東京都東村山市には、かつてハンセン病の隔離施設だった多磨全生園が今も残っている。私自身、小学生の頃に授業の一環として多磨全生園を訪ね、隔離と差別の歴史を学んだ。しかしそれ以降、私はハンセン病に関わりを持つことはなかった。特別法廷問題も、このニュースが初耳だった。
一人の東村山市民として、もう一度ハンセン病を知りたい。そう考えた私は今回、多磨全生園の資料、東村山の映画、それらに関わる人々の声などを取りあげ、この東村山からハンセン病を見つめなおすことにした。
◯ハンセン病(あるいは癩/らい)の歴史
ハンセン病はらい菌が原因の皮膚病だ。らい菌の感染力は非常に弱く治療法も確立されているので、衛生環境の整った現代の日本では新規感染の恐れはほとんどない。しかし、1943年に治療薬が開発されるまで、この病は不治の病とされていた。慢性化したハンセン病患者は手足の感覚を失うほか、手足や顔が硬直する、皮膚がただれる、指・脚・鼻などが脱落するなど、外見が大きく変化する。そのため、ハンセン病患者は「癩(らい)」と呼ばれしばしば差別されてきた。
この病に対する差別観は、少なくとも中世から存在する。法華経など仏教の教えの中で、癩とは仏教の教えに反した者に対する、もっとも重い報いでもあった。日本史の教科書でもお馴染みの『一遍聖絵』にも、乞食集団の中でさらにはじの方に孤立している癩病乞食の姿が描かれている。天刑病、業病などとよばれた癩病は、外見の変化や仏教の思想など様々な要因によって、被差別階級の中でも強い差別を受けていたのだ。
明治に入ると、ハンセン病が仏教的な業病ではなく伝染病であるという理解が広がった。開国以来コレラなどの伝染病に悩まされていた明治政府にとって、数万人とも言われるハンセン病患者に対する感染防止策は急務であった。伝染病を防ぎ公衆衛生を維持するとする立場から、1907年に「癩予防に関する件」(のちの「癩予防法」)が制定され、ハンセン病患者を全国に五か所ある療養所に収容する方針が示された。この五か所の療養所の一つだった公立療養所第一区府県立全生病院が、今の多磨全生園だ。
(国立ハンセン病資料館に設置された母娘遍路像。迫害から逃れるため、家を離れ遍路になったハンセン病患者も多くいた。)
◯重層的な差別観―『特殊部落調附癩村調』を読み解く
明治時代に始まったハンセン病隔離政策は、様々な差別・偏見を内包していた。それを示す資料として『特殊部落調附癩村調』があげられる。この資料は1916年、多磨全生園(当時は全生病院)の医長・光田健輔が全国の府県に、「特殊部落」(いわゆる被差別部落)の所在地とともにハンセン病が多発する地区(癩村)を報告させたものだ。
光田健輔は当時のハンセン病研究の第一人者であり、癩予防法の制定に尽力した医師だ。なぜハンセン病研究者が、「特殊部落」の調査を求めたのだろうか。なぜ、「特殊部落」の調査と癩村の調査が同時に行われたのだろうか。
その理由について、この資料の研究を手掛けた敬和学園大学の藤野豊教授は、ハンセン病と「特殊部落」を「劣った人間」と見なして結びつけた結果ではないかと推測する。ハンセン病は伝染病であって遺伝病ではないことを、光田健輔はよく理解していた。しかし「病気は遺伝しなくても、免疫が弱く病気になりやすい体質は遺伝する」とも考えていた。「『特殊部落』はもともと『特種』、つまり人種として劣った弱い人間だと差別されていた。とんでもない差別ですよ。劣っている人間だから、肉体的にも劣っているだろうと。それがハンセン病(になりやすい体質)と結びついた」と藤野教授は指摘した。
さらにこの考えを加速させたのが、日本の近代化政策だ。1899年に外国人の国内移動を自由化し、1904年の日露戦争に勝利するなど、日本はいよいよ欧米列強と肩を並べようとしていた。しかし、この時問題になるのが国内を浮浪するハンセン病患者だった。藤野教授はこう語る。「ハンセン病はアジア・アフリカに多い。先進国には少ない。これは衛生環境や栄養状態が整っていて免疫力があれば感染しないから。明治日本は、列強になろうというときにハンセン病患者が多数いた。これは恥、悪いことなのです。その悪い病気がどこに多いのか。これは劣った体質の人、つまり被差別部落に多いのではと結びついていくのです」。「特殊部落」への偏見、列強に対する劣等感など、様々な優劣意識が重なり合って、明治以降のハンセン病に対する差別意識が確立された。
○隔離―国立ハンセン病資料館
1931年に癩予防法が制定されると、療養所への入所を拒否するハンセン病患者を強制的に隔離することが可能になった。同時期に、各県の行政が積極的にハンセン病患者を探し出し療養所へ送り込む「無らい県運動」が活発化する。ハンセン病患者やその家族はらい病の発生源として恐れられ、結婚忌避などの差別が加速した。
社会から拒絶され、療養所の外で日々の生活を送ることすら許されなくなったハンセン病患者達。では、その療養所での生活はどのようなものだったのだろう。
多磨全生園の裏に建てられた国立ハンセン病資料館に、当時の療養所の現実を示す資料が展示されている。脱走防止のため現金の代わりに発行された園内紙幣。ハンセン病根絶のスローガンのもと子を産むことを許さず、断種や堕胎を推し進めたことを示すパネル。療養の為に来たはずの患者たちが担った、土木工事などの重労働の数々。孤島の療養所やヒイラギに囲われた療養所で、ハンセン病患者は逃げ出すこともできないまま療養とは程遠い日常を送った。治療法のなかった当時、療養所は治療施設ではなく、生涯隔離こそが目的だったのだ。
資料館の常設展示の一角に、重監房が復元されている。重監房とは特に反抗的な患者を隔離する部屋のことだ。部屋はコンクリート製で、重厚な鉄製の扉がついているのみだ。部屋を覗くと中は真っ暗で、資料館が用意してくれている懐中電灯がなければ何も見えない。ライトで室内を照らすと奥の壁に、何かで彫られたかのような絵が刻まれていた。よく見るとそれは絵ではなく、いくつも並べられた「正」の文字の復元だった。真っ暗なこの部屋の中、「正」の文字を刻みながら出獄の日を待った患者が居たのだろうか。この重監房では、14名が出獄を許されず亡くなったとされている。
○隔離が生んだ負の遺産―映画『あん』
小さなどら焼き屋を営む千太郎のもとに、ある日、徳江という老女が「雇ってほしい」とやってくる。一度は断った千太郎だが、老女の作る餡の出来栄えに雇い入れることを決心、彼女の餡は評判となった。しかし徳江が元ハンセン病患者だと知られると、途端に客足が遠のいてしまうー。
2015年に東村山を舞台とした映画『あん』が公開された。ドリアン助川さんの同名小説を原作に河瀬直美さんが監督、キャストには樹木希林さんや永瀬正敏さんなど実力派俳優が並ぶ。第四十回報知映画賞受賞作品であり、カンヌ国際映画祭にもノミネートされるなど、国内外で話題となった。
徳江とその周囲の人々の交流を描いた心温まるこの映画には、1996年の癩予防法廃止後もハンセン病の元患者たちが味わい続けた苦しみがちりばめられている。法の廃止によって隔離政策は終了し、元ハンセン病患者たちは自由を手にした。しかし、解放後も社会に受け入れて貰えない元患者が多数いた。差別意識が解消されなかったためだ。実は1943年にハンセン病の特効薬が発見されたため、感染予防のための隔離は根拠がないものになっていた。しかし日本では様々な政治的意図もあり、1996年まで不当に隔離が続けられてしまったのだ。その結果、ハンセン病を不治の病と見なす明治以来の偏見が長い間残ってしまった。ハンセン病の後遺症に加え、社会の偏見に苦しんだ元患者たちの多くは、完治したにもかかわらず社会復帰できないまま療養所に残らざるを得なくなった。徳江もまた、そうした元患者の一人だったのだ。
周囲の偏見から徳江を守れなかったと自分を責める千太郎のもとに、徳江から手紙が届く。「こちらに非がないつもりで生きていたとしても、世間の無理解に押しつぶされてしまうことがあります」。ハンセン病患者の多くは、隔離が終わったあとも世間の無理解に苦しみ続けた。
(映画『あん』のメモリアルマップと、映画をモチーフに作られた東村山塩どら。)
○多磨全生園の今
2001年、ハンセン病患者への長すぎる隔離政策に対し国家による賠償を命じる判決が熊本地裁で下された。政府はこれをうけ患者・元患者に謝罪し、元患者らの名誉回復を目指すことを約束した。隔離が終わったいま、患者・元患者への尊厳回復と、ハンセン病への理解を広げる動きが広がっている。
現在、多磨全生園には誰でも足を踏み入れることが出来る。ショートカットコースとして敷地を横断する周辺住民や、広大な緑地を公園のように利用する人、あるいは毎月千人前後におよぶ見学者など、様々な人が全生園を訪れる。全生園内には1996年以降も療養所に残った元ハンセン病患者のための居住区も確保されており、入所者と来訪者が交流するイベントもある。今の多磨全生園は、隔離施設ではなく広大な公園のようなイメージに様変わりしていた。
しかし、多磨全生園には大きな課題が残っている。入所者の高齢化だ。「多磨全生園には、今189人が暮らしています。年間平均で20名くらい亡くなられていますね」。多磨全生園入所者自治会の役員は、全生園の現在をこう語った。入所者の平均年齢は84.7歳、50代は一人もおらず、70歳以上が182名だという。多くが何らかの介護なしでは生活できない。隔離施設であった全生園の過去を知り、ハンセン病患者たちが味わった苦い歴史を語り継げる人が、だんだん少なくなっている。そんな中、全生園をどのように保存するのか。ハンセン病差別の歴史をどのように伝えていくのか。
この問題に対する一つの答えが「人権の森」構想だ。全生園を史跡が残る記念公園として整備し、差別や隔離など様々な形で人権を奪われてきたハンセン病患者へ思いをはせる場所として地域の人たちに開放していく。この構想の実現のため、入所者を中心に季節の花を植える緑化活動なども行われているという。「この森を、私たちが居なくなった後も地元の人達に残してほしい。そして負の遺産として、私たちの生きた場所をこのまま残してほしい」と、自治会役員は語った。
(多磨全生園内の資料館通り。両脇に桜が並び、春には隠れた花見スポットになる。交通量の多い所沢街道沿いにありながら、全生園の園内は緑が生い茂り非常に静かだ。)
○私のハンセン病
取材全体を通じて、気づいたことがある。それは、ハンセン病問題が過去の問題ではなく、実は「現在」の、そして「私」の問題であったということだ。
そのことに気付いたのは、藤野豊教授のインタビュー後半だ。「特別法廷の謝罪が終わって、これからの課題はなんでしょう」と質問したところ、「特別法廷が不正だったなら、その不正は正さなければいけない。それには検察庁による再審という手がある。被告であったハンセン病患者が亡くなっても、患者以外の人間が再審を目指すべきだ」という答えが返ってきた。不当な裁判を再審するというのはもっともだけれども、患者本人が亡くなった後に再審?思ってもみなかった答えに興味をひかれると同時に、私はかすかに反発するような気持ちになった。
しかし、多磨全生園入所者自治会でのインタビューで、私は自分の考えの甘さを痛感した。役員の方々がこんなことを教えてくれたのだ。「今、若い人たちが語り部を引き継ぎ始めているのです。元ハンセン病患者の語った内容を、次の世代の人たちが語り部として伝えていこう、と」。当事者以外が語り部活動をする、という内容に、私は驚かされた。そして同時に、「患者でなくても、私は当事者なのだ」と気付いた。
ハンセン病の隔離政策はすでに終わった。強制隔離の被害者たちも、高齢のため亡くなりつつある。しかしそれでも、不当な裁判や不当な隔離といった過去そのものが消えるわけではない。これから負の遺産を引き継ぐのはハンセン病の歴史を知らない世代、つまり私たちだ。私は過去の過ちを正すこと、過去を未来へ引き継ぐことを任された当事者なのだ。ならば当事者として、私は次に何をしなければならないだろうか。
○インタビュー協力者および参考文献
今回の執筆にあたり、敬和学園大学人文学部国際文化学科学科長の藤野豊教授、多磨全生園入所者自治会経理担当K.F.氏、同生活担当Y.M.氏、同医療担当Y.Y.氏にインタビューを行わせていただきました。ご協力をいただきましたこと、この場を借りて感謝を申し上げます。
【参考文献】
大野哲夫・花田昌宣・山本尚友『ハンセン病講義』現代書館,2013年
金井清光『中世の癩者と差別』岩田書房,2003年
ドリアン助川『あん』ポプラ社,2013年
ハンセン病問題に関する検証会議『ハンセン病問題に関する検証会議最終報告書』日弁連法務研究財団,2005年
藤野豊『「いのち」の近代史』かもがわ出版,2001年
藤野豊「「特殊部落調附癩村調」の意味するもの--部落差別とハンセン病患者差別の接点」『部落解放』535号, 2004年,66-73頁
藤野豊『ハンセン病と戦後民主主義 : なぜ隔離は強化されたのか』岩波書店,2006年
朝日新聞「ハンセン病患者の隔離は違憲 人権、著しく侵害 熊本地裁判決」2001年5月11日夕刊,一面
朝日新聞「ハンセン病解決へ小泉首相談話」2001年5月26日朝刊、四面
朝日新聞「隔離法廷、最高裁が謝罪 「ハンセン病患者へ差別助長」 違憲性は認めず」2016年4月26日朝刊,一面
“国立ハンセン病資料館のあらましとお願い”国立ハンセン病資料館http://www.hansen-dis.jp/01int/greeting(最終閲覧2016年10月17日)
“じんけんのもり”じんけんのもりhttp://jinkennomori.com/wp/?page_id=18859(最終閲覧2016年10月17日)
“「人権の森構想」とは”東村山市https://www.city.higashimurayama.tokyo.jp/shisei/danjo/jinken/jinkennomorikousou/jinkennomori.html(最終閲覧2016年10月17日)
“ハンセン病とは”日本財団http://www.nippon-foundation.or.jp/what/projects/leprosy/about/(最終閲覧2016年10月17日)
“ハンセン病とは”国立感染症研究所http://www.nih.go.jp/niid/ja/encycropedia/392-encyclopedia/468-leprosy-info.html(最終閲覧2016年10月17日)